確かな手応えのある暮らし。「自分の働きによって稼ぎを得ているという、
確かな手応えのある仕事をしたい」
東京で会社勤めをしながら、
そう考えた森田朱音さん。
たどり着いたのは、野生の
イノシシ肉の活用を中心に、
地域の人々が
ゆるやかにつながり、
和気あいあいと暮らす美郷町だった。
山あいの町で生活する彼女に会いに行った。
イノシシ肉を使った
多面的な事業展開に感動
強く握られた手に移住を決意。
地域活性化などを手がけるマーケティング会社のスタッフとして、福岡と東京で勤務していた森田さん。全国の自治体と関わるなかで、野生の鳥獣被害が中山間地域の課題のひとつであることを知った。「中山間地域は、これからさらに高齢化が進む。野生鳥獣への対策と、地域の活性化を両立する仕組みをつくれないだろうか」。そんな漠然とした思いを抱いたという。
その一方で、各地の特産品開発にアドバイザーとして関わるうちに、「自ら何かをつくって売りたい」という気持ちが強くなった。そんな思いもあって会社を辞め、生き方を模索していた頃、以前から知り合いだった美郷町役場の職員から連絡があった。軽い気持ちで足を運んだ美郷町。しかし、これが森田さんの運命を変えることとなった。
美郷町で目の当たりにしたのは、「地域住民総出」のイノシシ活用事業だった。もともと、美郷町がイノシシ肉を特産としていることは知っていた。しかし、イノシシ肉の販売にとどまらず、皮を使った商品開発やイノシシに荒らされない畑づくりを地域の人がそれぞれに役割をもって関わっていることは予想外で、作業の様子は「感動的だった」という。
「私も仲間に入れてほしい!」。楽しそうに集う住民たちの姿を見て、瞬間的に思った森田さん。実は、鳥獣被害に関心をもった頃、東京で狩猟免許も取っていた。地区の婦人会長からも「よろしくね!」と強く手を握られた。その手の温もりにも心が動いた。迷いはなかった。「よし、美郷町に住もう!」
美しい景色に囲まれる贅沢
四季の移ろいを間近に感じる。
現在、森田さんが代表を務める「株式会社おおち山くじら」は、イノシシ肉の加工販売を手掛ける。草木の茂る山中を駆け回ったイノシシの肉は、整った環境で飼育された家畜よりも味が濃く、旨みも深い。加えて、肉質が安定していて扱いやすいことにより、東京を中心に高級フレンチから居酒屋まで全国の飲食店から支持を得ている。森田さんはその受注、発送の手配、ホームページの更新などの事務仕事の他、東京・代官山にビストロを構えるシェフと協働して新商品開発にあたる。イノシシのスジ肉、ウデ肉などの扱いづらい部位を活用した煮込み料理の缶詰は、ポトフ、スパイス煮込み、黒ビール煮込み、大豆のキーマカレーの4種類があり、「調理済ですぐ食べられる」と、お取り寄せやお土産用に好評だ。
ほのぼのした折り紙作品や小さな仕切りの棚が残る、築約50年の旧保育所。地区住民の思い出の詰まった建物が、森田さんの仕事場。ここで缶詰加工や発送作業を行っている。
自宅から仕事場へ向かう道には、江の川と周辺の山々、広大な空が織り成す穏やかな景色が広がる。「雪の積もった冬の晴れ間も、春の新緑も、夏の川のせせらぎも、秋の紅葉も、みんなキレイ。ふとした瞬間に、こんな美しい景色が見られることはありがたいことだなぁと、いつも思います。県外への出張から戻ってきて美郷町の風景を見ると『ああ帰ってきたなぁ』と一息つけます」と話す。
おばちゃんたちとワイワイ
にぎやかに集って食べて楽しんで。
そんな風景と同じくらい森田さんを惹きつけて止まないのが、美郷町の人々だ。初めて会った時に森田さんの手をしっかりと握った婦人会長は、移住して間もない森田さんを婦人会に誘い、森田さんはまだ自宅も片付かないうちに約50人の婦人会メンバーと小豆島1泊旅行へ行くことに。朝6時からカラオケで盛り上がる〝おばさまたちの宴〟に最初は面食らったものの、「その旅行で、一気に50世帯くらいの地域の方々とお知り合いになれました!地域に溶け込むとてもいいきっかけになったんです」と振り返る。
毎週水曜日には、山くじら近くの道路沿いで朝市が開かれる。それに合わせて、婦人会のメンバーが集まり、みんなでにぎやかに朝食を食べるのが習慣となっている。元気に笑うおばちゃんたちの中に、負けないくらい大きな声で笑う森田さんの姿も。「おばちゃんたちが作ってくれる料理はしみじみ『おいしいなぁ』って思う。近くで育てた野菜や地元でとれたイノシシを使って、季節のおいしいものを仲間たちと食べる。『この地で生きているんだ』って実感します」と語る。
人にも食材にも恵まれた
地に足をつけて生きられる場所。
美郷町での生活で「あえて不満を挙げるとしたら、夜飲みに行ける店がないことかな。みんなとお酒を飲むのが好きなので」と森田さん。たまにメンバーみんなで食事会をする時は、職場から車で3分ほどの森田さんの家が会場となる。「うちのメンバーは器用な人が多くて、スッポンをとってきて鍋にしたり、ウナギをさばいて焼いてくれたり。幸せな環境ですよね」と話す。
「移住前に描いていた『確かな手応えのある仕事がしたい』という夢は叶えられましたか」との問いに、「叶えられ過ぎています」と森田さん。今、共に会社を運営するメンバーは皆Iターン者。「外から来た私たちに、これまで地域の皆さんが培ってこられた事業を任せてくれて、本当にありがたい」と感謝する。「私たちの働きが山くじらや美郷町の評価につながっていることがうれしい。自分たちの力で生きていると実感を持って、これからもおばちゃんたちとワイワイしながら暮らしていきたい」と語った。
- 森田朱音さん
- 福岡市出身。九州大大学院を修了後、マーケティング会社に入り、全国の地域活性化などを手がける。2014年6月から地域おこし協力隊として美郷町へ移住。17年9月に「株式会社おおち山くじら」代表取締役に就任する。 ※掲載記事は取材時点の情報となります。