2019年に入籍した夫妻。二人を島根に呼び寄せたのは田舎暮らしへの憧れではなかった。
賢一さんは山口県出身。東京の大学に進学し、卒業後はイギリスの大学院へ進む予定だった。渡英までの準備期間中に在籍していた教育NPO で、地域の子どもたちに多様な生き方を伝える教育プロジェクトの担当者としてオファーがかかる。その赴任地が益田だったのだ。
居住地に選んだ北仙道では、引っ越ししてすぐに歓迎会が開かれた。集まった住民は、幼児から高齢者までなんと30人!見ず知らずの若者を笑顔で迎え、地域の一員になることを喜んでくれた。
その後も「ご飯食べに来なよ!」と顔を見るたび声をかけられ、体調が悪い時には食事を届けてくれるなど、みんなが何くれとなく面倒を見てくれた。隣のおばあちゃんは毎日「いってらっしゃい」「お帰りなさい」と声をかけてくれる。「外から来た人を大事にしよう、警戒するよりまずは受け入れようという地域ですね。石見の人柄なのかな?」と賢一さん。人の温かさから、北仙道という地域に惹かれ始めた。
北仙道は人口減少が進むが、ここに住む人たちは互いに繋がり、暮らしを楽しむことを諦めない。子どもたちのために合宿や運動会を開き、イベントも企画する。賢一さんがしめ縄を作ってみたいと近所の人に話したら、公民館で講習会が開かれたこともあった。「誰かが『こんなのやってみたい!』と言ったら『じゃあやろう!』という感じ。娯楽をお金で買うのではなく作るんです。都会じゃありえないですよね。自分たちで楽しくやっていこうという精神がすごくいいなと思いました」。 赴任期間は1年だったが、ここで根を張り地域の人たちと挑戦をしようと思うようになり、NPOを離れ独立開業することを決めた。
美奈さんは岡山県出身。仕事で松江市に赴任した際、生活と職場以外に自分らしく過ごせる場所を求め、イベントなどを通じて島根の魅力を味わうグループに参加していた。島根県のさまざまな町で地域活性化のイベントに携わる中で「ここには楽しいことを創り出せる人がたくさんいる。島根は面白い土地かも」と考えるように。「転勤が多い仕事をしていて、どこかに定住したい気持ちもありました。できれば田舎で。それなら島根かな、と」
そんな中、Facebookで賢一さんを知る。賢一さんが住んでいたのは、元は空き家だった古民家。そこで開かれた歓迎会の写真を見て、「同世代でわざわざこんな辺鄙なところに、しかも空き家で暮らしている人なんかいない!変わってるなあ!」と興味を持って連絡を取るように。北仙道に通ううちに、賢一さんの生き方に共鳴していった。「この人と一緒にここにいたら、楽しいことができると思ったんです」。賢一さんと暮らすために前職を辞め、北仙道へやってきた。
「島根県は『日本で一番余暇の時間が長い』と言われています。仕事の時間だけでなく、それ以外の趣味やレジャー、家庭生活などの時間を自分のライフスタイルに合わせてコントロールしやすい環境なのかもしれない。住んでみてそう感じています」。現在は自身が創設した「一般社団法人豊かな暮らしラボラトリー」で、小中高の生徒が地域の大人と触れ合い生き方を学ぶ機会を設けたり、町の課題解決のサポート、大人が職場・家庭以外で人と繋がれる場所作りなど、地域の生活に豊かさをプラスする企画に取り組んでいる。趣味は書道。東京で暮らしていた頃と違い、18時ごろには帰宅できるので、心静かに筆を持つ時間があるのが嬉しいという。
結婚してからは、そんな時間がさらに充実。美奈さんも定時で帰ることが多いので、二人でゆっくりと食卓を囲み、語り合っている。新しい生活を築き始めたばかりの夫妻にとってかけがえのない時間だ。
家の前には春に竹の子が生え、秋には栗や柿が実り、食卓に旬の味が並ぶ。美奈さんは兼ねてから、四季折々の地のものを食べる丁寧な暮らしがしたかったので、今の暮らしの満足度は高いそうだ。近所の人から野菜や果物をお裾分けされることも多い。
家の庭には小さな畑があり、野菜作りを楽しんでいる。採れた夏野菜でカレーを作り、地元のマルシェで振る舞ったことも。「うちでできた野菜を近所の人にお裾分けしても、お返しに同じような野菜をもらって、結局減らないんですよ。カレーにしてみんなで食べたら面白いだろうということになって…」「お米も近くの農家に分けてもらって、北仙道の食材たっぷりにしたよね」と笑う。夫妻にとって、生活の中から得たアイデアを地域で楽しむ娯楽に変える新しい体験となった。
最近は月に1回北仙道でイベントを企画している。地域の人からもやってみたいことを聞き、次々とアイデアが生まれる。公民館の内装を DIY する会、水引アクセサリーを作る会…。ここでの暮らしを前向きに楽しむ姿勢は、北仙道の人たちと同じだ。そんな時間を夫婦で共有しながら、幸せな暮らしを織り上げている。
益田には夫妻の暮らしを彩るものがある。石州瓦の風景だ。「国道 9号線を走っていると、赤い屋根、青い空、緑の山々のコントラストが目に鮮やかに飛び込んでくるんです。私たちの大好きな風景」と美奈さん。夫婦共に石州瓦に惚れ込み、結婚式のウエルカムボードは石州瓦で作り、食卓には瓦工房で作られた器が並ぶ。釉薬塗りなどの体験も楽しんでいるそうだ。益田市中心部にある島根県芸術文化センター「グラントワ」はお気に入りの場所。建物の屋根と壁は 28万枚の石州瓦で覆われ、光の射し方によって多彩な表情を見せる。入籍した日は中庭で記念写真を撮影した。島根の手仕事にも惹かれている。「暮らしの中に島根の器や工芸品を増やしていきたい」「他の町にも行って窯元巡りをしたいね」。
季節を感じる穏やかな時間、人との縁、その中で楽しみを見出し作り上げる充実感。それが益田で二人が得た宝物だ。これから夫婦で築いていく日々は、これからも豊かさが増えていくことだろう。