綺麗な海と人の温もり
何もないけど、宝物がある町
生まれ育った海辺の町に
根を下ろした野村道徳さん。
趣味のサップを楽しむ中で、
自身が感じたふるさとの魅力を
仲間とともに発信している。
「親兄弟には『どうせ帰って来ないだろう』と思われていたみたいです。地元は本当に田舎なので!」と笑いながら話す野村さん。高校卒業まで過ごした島根を離れて山口県の専門学校に進学し、就職と同時にUターンした。
生まれ育ったのは、益田市の海辺にある鎌手地区。いつも波の音が聞こえ、窓の外に行き交う漁船が見える。徒歩圏内に海水浴ができる小さな浜もあり、物心ついた頃から海で遊んでいた。「夏休みになったらプール感覚で通っていました。地域の人が交代で監視員をしてくれて、波が穏やかで遊泳できる時は白い旗、荒れていて入れない時は赤い旗が立って。家から水着を着たまま歩いて行っていました。近所の子どもはみんなそう。自然の中で思い切り遊んでいたからでしょうね…僕はふるさとへの愛着が強く、海で何かしたいという思いが島根を離れてからもずっとありました」
地元の医療機関で就職し、20代前半で結婚。仕事や子育てに忙しい日々を過ごしていた。子どもたちが10代になり少し手が離れた頃、義姉に誘われて始めたのがサーフィン、そしてサップ(スタンドアップパドルボードの略)だった。専用のボードを水に浮かべパドルで漕ぎ進むサップは、水面に近い視線で景色を楽しめる。「初めて乗ったとき、海がすごく綺麗で…。船ともサーフィンとも違う景色が広がっていました」。雄大な景色の中に漂い、清々しい空気を吸う。陽光を反射する水面を間近に感じ、その下には魚が泳ぐ姿も見える。慣れ親しんだ海の、見たことがない景色に出会えたのだ。
元々海で遊ぶことが大好きだった野村さんはすぐに夢中に。今では少しでも時間があれば海にサップを浮かべて楽しんでいる。自宅から徒歩約5分の距離の小さな浜や、車を10分ほど走らせた場所にある海水浴場など、サップスポットには事欠かない。「仕事や用事がある日も1時間ぐらい余裕ができたらサッと海に出ますし、明け方にサップをしてから出勤したり、仕事が早めに終わったら日が沈む前に海に出たり…。思い立ったらいつでもできる環境です」。家で事務作業をするとき、ノートパソコンを海辺に持って出てワーケーション気分を楽しむこともある。海辺の町ならではのライフスタイルだ。
サップは川や湖でもできるアクティビティ。「僕はもっぱら海で遊んでいますが、島根は綺麗な川が多いので、広い河口でやってみたり、下流からゆっくり上流に登ったりすると素晴らしい景色が見られるでしょう。松江市の宍道湖でもサップをしている人が増えていると聞きます」。美しい水辺に恵まれた島根は、サップに適しているようだ。
野村さんは地域自治組織「かまて地域づくり協議会」の「魅力づくり部会」に所属。地域の魅力発掘企画の一環としてサップの体験イベントを開催している。刺激的な娯楽を求める大人には、都会に出なくてもこの場所で非日常が満喫できることを伝え、鎌手地区を好きになってもらう。子どもたちには、ふるさとにポジティブなイメージを持って育ってもらう。それが狙いだ。地域の子どもの多くが、高校卒業後は進学のために県外に出る。「自然の中で思い切り遊んだ記憶が残っていると、僕と同じようにふるさとにポジティブな印象が残り、戻るきっかけになるかもしれません」
地方の小さな町の自治組織は定年退職後の高齢者が主力になることが多いが、「魅力づくり部会」のメンバーは20〜40代が中心。若い世代が積極的に地域課題に向き合っている。「育児中の人や働き盛りの人も多く、みんな忙しいはず。それでも活動に関わろうとするのは、地元へ強い思いがあるからでしょう。上の世代の方たちが協力的で活動しやすいのもこの地域の特徴。あったかい地域なんですよ」。サップの体験イベントの際も、自治会長が公民館を用具置き場に提供してくれ、近くの住民たちも声をかけ見守ってくれる。優しい結びつきが活動の後押しになっているのだ。
部会では、野村さんだけでなくメンバーそれぞれが得意分野やネットワークを活かして多様な企画を行なっている。コーヒー愛好家のメンバーが中心となり朝市でブースを出したり、地域のマップ制作、無人島の魅力発掘調査など、内容は幅広い。今後は廃校を使った星空観察会や焚き火の会なども予定。コロナ禍では集会所などに集まりにくいため、最近は〝青空会議〟スタイルでミーティングをしている。浜辺に椅子を並べ、仲間が淹れたコーヒーを飲みながら語り合う。いつでも気軽にでき、もちろん会場代も駐車場代もかからない。中には県外から単身で移住してきた20代の若者もいて、地域に溶け込む場にもなっている。
野村さんは「昔から『鎌手って何もないじゃん』と言われるんですが、僕は『それが良いんだよ』と伝えたい!」と語る。若い世代は精力的に活動し、上の世代はその心意気を受け止めて支える。そんな大人たちの姿は、美しい自然やその中での遊び以上にポジティブなものとして子どもたちの目に映るはずだ。〝何もない〟はずの町に確かに存在する魅力は、いつかこの場所を離れることがあっても、途切れることのないふるさととの絆になるだろう。
- 野村道徳さん
- 島根県益田市出身。理学療法士、家庭では二児の父。「かまて地域づくり協議会」内「魅力づくり部会」で地域の魅力発掘の活動に取り組む。部会主催のサップ体験イベントでは講師として活躍。 ※掲載記事は取材時点の情報となります。